愛されジョーズ

music writer 上野三樹

YUKI concert tour “Blink Blink”2017/7月23日函館アリーナ

アルバム『まばたき』をひっさげての、YUKIの全国ツアー、「YUKI concert tour  “Blink Blink”2017」最終日となる7月23日の函館アリーナ公演に行ってきた。YUKIは今年でソロ活動15周年。このタイミングでリリースされたアルバム『まばたき』は、本来のYUKI自身に回帰するようなノスタルジーと、どうしようもない程にエネルギッシュかつポップな作品だった。5周年の時より、10周年の時より、YUKIが精神的に自らの活動を総括し、また、自分が歌うということは何なのかを再定義するような内容に感じた。それは決して後ろ向きなことなんかではなく、15年かけて、ようやくYUKIはここにたどり着けたんだ。長く彼女の音楽を聴き続けてきた者にとっても感慨深い喜びとまた新たな楽しみを受け取ったことだろう。だからこそ、この作品をひっさげてのツアーファイナルが、彼女の故郷である函館で行なわれること。ここにも大きな意味を感じて、どうしても見届けたくて函館に向かうことにした。

ライブは最新アルバムと同様、「暴れたがっている」で始まった。まるでカーネーションを着ているような赤とピンクの衣装に身を包み、大きな頭の羽をゆっくりと揺らし、ステージ中央の階段上に登場したYUKI。1曲目ではバンドとのグルーヴを確かめるように、2曲目の「プレゼント」では階段を降りてきて客席のエネルギーを一身に感じるようにして歌っていた。続く「ドラマチック」では尻尾のように長いふわふわの衣装を器用に振り回しながら踊る姿にも目を奪われる。冒頭から「ハローグッバイ」までの流れで、このツアーがアルバム『まばたき』のみならず過去の楽曲もふんだんに織り交ぜて15周年ベスト的な内容で行なわれることがわかる。

「ただいま、函館!」とYUKIが挨拶すると会場からは大きな声で「おかえりー!!」と返ってきた。「なまらやばいね」と嬉しそうなYUKI。「今回はアルバム『まばたき』を持ってツアーをまわっています。YUKIになって15周年のお祭りでもあります」そして「こんなにみんな来てくれるなんて思わなかった!」と感謝の気持ちを伝える。これは彼女が本当に何度も口にする台詞だ。いつだってこの光景が当たり前のことじゃない、という意味が含まれているように思う。続けて「函館は私が生まれ育った街だから、今日こうしてファイナルに選んだんです」と。ちなみにYUKIが函館でライヴをするのは2005年に行われた「ユキライブジョイ」の(今はなき)函館フライデーナイトクラブ公演以来となる。

その後の流れではソロデビュー曲「the end of shite」をセクシーに披露しつつ、「名も無い小さい花」や「私は誰だ」「こんにちはニューワールド」など、アルバム『まばたき』の楽曲を次々と届けていく。いつだってYUKIは最新モードで最も興奮させてくれるアーティスト。特に、たくさんのミラーボールが輝いてメロウにセンチメンタルに鳴らされた「こんにちはニューワールド」は格別だった。この曲は函館から上京する時の気持ちや、そこから続く長い物語の始まりについて歌った曲で、地元・函館で歌うことは彼女にとって胸にこみ上げるものがあっただろう。《どこまでも終わらないような夢の中で/うしろめたさばかりなの 何故?》そんな歌詞が切なくて、あらためてこのアルバムがいかにYUKI自身の正直な想いが綴られているかを感じた。そして思うのだ、『まばたき』の曲があまりにも素晴らしいので、15周年ベスト的な選曲を入れずに、この『まばたき』の世界観をライヴでがっつりと表現するようなコンセプチュアルなツアーも観たかったな、と。でも瞬時にその想いをかき消した。もう、コンセプトすら必要なかったのがこの『まばたき』というアルバムなのだ。今のYUKIには歌いたいことがあり、歌いたいという強い気持ちがあった。シンプルに、ただそれだけ。素晴らしいメロディがあり、その想いを歌に乗せた。更にこうして過去の曲たちも一緒に並べて、全部抱きしめるようにして歌うのが、15周年というタイミングなのだ。

圧巻の歌声と気迫で会場を包み込んだ「tonight」から、YUKIの衣装チェンジ=お楽しみ映像タイム。ここでの映像はYUKIがロケットに乗って飛んでいったり、象に乗ったり、マリンスポーツをしたりといったCGを使ったユニークなもの。見入って気を許しているうちに、終わった瞬間、YUKIはステージからアリーナ中央に向かってY字型に伸びた花道の上に立っていた。プラチナゴールドのボブヘアーにキラキラと光る水色の衣装だ。そして始まったのは「レディ・エレクトリック」。後ろのヴィジョンとYUKIの動きが連動していて、手や体の動きに合わせてヴィジョンにビリビリと電流が走っているような演出が楽しい。それにしても可愛いこの衣装……素材は何でできているのだろうか。最早、布ではなさそうなものを着こなしているYUKIなのであった。続く「バスガール」で「函館アリーナ」と書かれたバスが走ってきてYUKIがバスガイド役をつとめるという映像もとびきりキュート。さすが永遠のポップスター!と賛辞を送りたくなる、なまらかわいさ。最後の《はい チーズ》の歌声に合わせてオーディエンスと共に記念撮影。すぐにヴィジョンにその写真が映し出されるという大サービスの演出も。そういう意味では、アート的なものよりも、みんなが好きなYUKIが見れたり、みんなで楽しめるポップな演出が多いツアーとも言える。

「メランコリニスタ」「ランデヴー」「ワンダーライン」といったライヴで人気の曲たちで熱気いっぱいに盛り上がった後は、YUKIがロングヘアー+黒いパンタロンのような衣装にサタデー・ナイト・フィーバー的な決めポーズで登場したのが新鮮だった。花道の舞台が少しせり上がり、披露されたのは、これまたみんな大好きな「JOY」。15周年のハイライトにふさわしい、たくさんの思い出が蘇るこの曲が最終日の函館アリーナを華やかに、そして温かく彩っていく。

その後は花道上のステージで8人のミュージシャンが共にスタンバイする中、しばしMCタイム。いつものように、YUKIにたくさんの声援が飛び交い、この日は「YUKIカッコいい!」「カッコいい?今日もカッコ良くてすみませーん!!」が炸裂。そして遂に「函館が生んだスーパースター、YUKIです!」のフレーズが飛び出す。「これ、函館で言いたかったんで、ほんとに嬉しいです」と言っていたけど、ファンもきっと、函館でこれが聞きたかったに違いない(笑)。

そしてこの時、函館ならでは、最終日ならではの大事なことを語ってくれたのだった。

「私はここ、函館で生まれ育ちました。19歳まで、ここにいました。この会場はまだ、なかったんですけど、市民会館ではピアノの発表会をやったこともあるし、向かいの生協(スーパー)はうちの母ちゃんが働いていました。中学の時は2階の文教堂でマンガ読み放題(笑)。だから、なんかすごく不思議。どこを走ってても知ってるから。なんて言うか、すごく切ない感じがする。これは何なのかなって昨日考えたんだけど、わかった。

私の10代、ほんとにひどい10代で。自分ひとりで生きてるって勝手に思っていたんだよね。思い通りにならなくてモヤモヤして色んなことにぶつけたり、家出したり、引き戻されたり(笑)。でも、そのモヤモヤがいつも詞になってた。毎日日記を書いていて、プロになりたい、歌手になりたい、でもどうしたらいいのかわからない。そんなことをいつも函館で思ってた。それを思い出すと同時に、すごく恥ずかしい記憶ばっかり出てくる。全然上手く生きられなかった。(このあたりで泣き出す)恥をかいてばっかりだった。そんな恥ずかしい思い出が蘇ったらすごく切なくなるんだけど。でも私、今もね、恥かいて生きてる。全然立派になんてなってないし。ここにいた頃と全然変わってない。ずっと函館っ子っていうか‥‥YUKIとしてがんばってるけど、うん、函館が私を育ててくれたなと思う」

きっとこの日、観ていたお客さんの多くもそうだったと思う、きっとたくさんの人が、上手く生きられなかったり、上手く笑えなかったり、どうしたらいいかわからなくてもがいていた日々の中で、YUKIの音楽に出会って、励まされたり、力をもらったり、笑顔になったり、してきたんだと思う。だからみんなも、泣きながら話すYUKIの言葉を、泣きながら聞いていたんだろう。

ステージの上のミュージシャンも、お客さんたちも見守る中、YUKIは白いタオルで涙をふいた。そして「ねえ、もっとオシャレなタオルないの?何これ?」と笑わせた。

初めてYUKIのライヴに来た人?と函館っ子に話しかけながら「CDあるから買っていきなさ〜い」と、独特なイントネーション。これはお母さんの真似だそうで、お腹いっぱいなのに「YUKIいいから食べなさ〜い」と言われ、ちょっと目をこすると「YUKIもう寝なさ〜い」と言われるのだとか(笑)。そんなアットホームなエピソードが飛び出すのも地元ならでは。

あらためてアルバム『まばたき』ツアーにちなんでthe winksと名付けられた今回のバンドのメンバーを紹介し、「15年間、その前からだと23年間、詞を書いてきました。いつでも自分がなりたい自分を書いてきました。まだまだなりたい自分には遠いです。だからまだまだ詞を書いていくと思う。この曲、知ってる人がいたら一緒に歌ってください」と「Hello!」へ。スライド奏法によるギターや、ピアニカ、タンバリン、トロンボーンにトランペット……とても芳醇で深みのあるアコースティック・サウンドでゆったりと演奏された。まるで最高の映画を観た後の、美しいエンドロールみたいな気持ちになるようなひとときだった。続いてYUKIアコースティック・ギターを弾きながら歌った「相思相愛」では、ヴィジョンにこの15年間の様々な写真や映像が映し出されながらの演奏となった。いわゆるアーティスト写真やジャケット写真などではなく、おそらくスタッフの方が撮影されたのであろう、スナップ的な写真や映像の中で微笑んだりおどけたりしているYUKIの自然な表情。そして、着ている衣装やシチュエーションなどで、いつ撮影されたものかがわかる。そうやってYUKIの歩みを辿りながら、また自分自身との思い出も重ねながらみんなが聴いているのがわかる、これまたとても良い時間だった。しかし最後の最後まで気迫に満ちた声を震わせるようにして渾身の歌を放ったYUKI。曲の終わりには手書きの文字で彼女からのメッセージがヴィジョンいっぱいに広がった。「15年間 良い時も そうでない時も いつもそばにいてくれてありがとう」。

でもさっきのエンドロール的なムードなんて何だったんだろうという程に、まだまだ盛り上がっていくのがYUKIのライヴ。バンドのメンバーとメインステージに戻ると、赤い傘をくるくると回しながらコケティッシュな魅力を放出しながら歌われた「恋愛模様」。和的情緒のある歌い回しや、ビッグバンド・ジャズ風の大迫力サウンドが特徴的なこうした楽曲にもYUKIのユーモアとクリエイティヴィティに満ちた音楽家としての歩みを感じさせる。一転して切ない「2人のストーリー」がそっと火照った心を撫でるように奏でられ、センチメンタルなメロディに身を預けながら、何だかこの夜が終わってしまうのが惜しいなと思った。しかし本当に本当のハイライトは次の、22曲目となる「聞き間違い」ではなかっただろうか。アルバム『まばたき』でもとびきり輝きを放っていた名曲が、丁寧に大切に、鳴らされる。この曲の歌詞はYUKIが書いてきた作品たちの中でも今しか書けない集大成として抜群の素晴らしさとキレ味の鋭さを持っていると思う。ものすごく大事なものに触れ続けているような言葉たちなので、どのラインを抜き出したらいいのかもわからないくらいだ。

《互い違いのボタンかけ間違えたまんまじゃあ おいしい夢だけ食べて生きられないよ/それは時に厳しく 道を踏み外してしまう 愛を止めないで気付いてく 旅の途中》

このあたりなんて「歓びの種」の続編みたいなメッセージ性を感じさせるなと思っていたら《歓びに頬を緩め 朝焼けに 足るを知る 私にしか歌えない歌があるんだ》なんて核心を突く。しかし何より、ガツンとくるの、ここなんだ。

《「素直で明るいだけで人には価値がある」と 誰でもいい もう少し早く教えてよ》

函館で上手く生きられなかった10代のYUKIに、大人になった今のYUKIが歌いに来てあげたんだ。函館アリーナで熱唱する彼女の姿に、その歌に込められた想いに、息継ぎが苦しいほどに泣いてしまった。

そんな感傷を吹き飛ばすような「さよならバイスタンダー」、フライングVを弾きながらロックスターぶりを見せてくれた「鳴いてる怪獣」、ホーン・セクションとのコール&レスポンスも見事だった「WAGON」など、最後の最後までエネルギッシュだったこの夜。そして笑顔で「サンキュー函館!」と叫び、キラキラのテープが宙を舞った「トワイライト」がラストを飾る。アルバム『まばたき』の最後に収録されていたこの曲が、新たな盛り上がりチューンとしてこのツアーで愛されてきたことがわかる楽しいフィナーレだった。

思えばアルバム『まばたき』は1曲目「暴れたがっている」の《あがいてたら 振り出しに戻ってた》という歌い出しで始まっている。ソロとしてひとりで歩み始めたYUKIが、この15年間たくさんの旅をして、本来の自分自身や、ルーツや、ただ理由もなく歌いたいと思った時の衝動といった振り出しの場所に立ち返れたのが今。

そんなツアー最終日を彼女の生まれ育った函館で見届けることができて、YUKIの素直な現在の気持ちに触れた気がしたし、19歳の時のままのがむしゃらで必死だった女の子が今のYUKIの胸の中にまだいるということを知って、アルバム『まばたき』を聴いた時と同じようにとても嬉しい気持ちになった。YUKIもきっと、そんなかつての自分にまた会いたくて、忘れてないよって言いたくて、「サンキュー函館!お父さんお母さんあたしを生んでくれてありがとう!」と函館アリーナで叫んだのだろう。

 

ぼくらの四十周年記念奏@恵比寿ザ・ガーデンホール(後半戦)

7月7日に行われた「ぼくらの四十周年記念奏 since 1977-4.2~1978.4.1@恵比寿ザ・ガーデンホール」の模様です。前半戦はこちら→

ぼくらの四十周年記念奏@恵比寿ザ・ガーデンホール(前半戦) - 愛されジョーズ

 

風味堂の渡くんにアンダーグラフの真戸原くん+FLOWのKOHSHI氏も飛び入り参加し、ステージ上には16人!というカオスな盛り上がりを見せた後、登場したのは奥華子さん。気づけばいつの間にかHOUSE BAND77 clay crewのメンバーもステージからいなくなっている(ちなみにド派手な金ピカ衣装でみんなにいじられ続けていた鍵盤の谷口喜男さんのみサポートで残られてました)。「こんばんはー!」と元気に登場した奥さん。常田くんが「せっかくなので奥華子さんには弾き語りをしてもらいたいなと思って」と言うと、奥さんが「みんなが休憩するための弾き語りでしょ(笑)」と返して「違います、違いますよ!」と慌てて否定していたのが面白かった。しかし、奥さんと言えば弾き語りなのである。

鍵盤の前に座って「今回は同級生ライブということで。飲み会にも参加させてもらってたんですけど、飲みすぎて記憶がなくて誰とも連絡交換せず無駄に終わってしまって(笑)。でも今日はみんなと一緒に歌えてとても嬉しいです」とMC。そして「まずは代表曲、聴いてください」と、始まったのは。♪大きな窓が〜あるお部屋っ、そう、あの有名なCMソング。まさに鉄板ネタです(笑)。生の弾き語りで聴く♪お部屋探しMAST、客席の子供たちも大喜び。そして素晴らしかったのが「遙か遠くに」。「40歳というのは色んな方向に人生が別れる時なのかなと思います。色んな40歳がいるな、昔、自分が思い描いていた40歳ってどんなだったかな、と思いながら今の自分に向き合いながら作った曲です」と話してくれたのだが、何とも心にガツンとくる弾き語りだった。《こんなにもたくさんの人がいて すれ違い出会い続けても/私を待ってくれる人は何で一人もいないんだろう》時々、そんな風に気落ちしたりして、まだまだ揺らいでいるのも40歳になりたての私たちらしさなのかもしれない。でもそんな日があったとしても自分を信じる力を持っているのも、40年生きてきたっていう証として誇りに思ってもいいのかもしれない。彼女の真っ直ぐに輝く歌声を聴きながらそんなことを考えた。


◆「遥か遠くに」も収録のアルバムダイジェストです◆

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 弾き語りの後はバンドのメンバーと共に、常田くんがずっと好きな曲だという「ガーネット」を。このイベントをやるにあたって、是非この曲を「バンドっぽいアレンジをやってみたかった」のだとか。奥さんが「ライブのデモを作りました、と常田さんから音源が送られてきたんですけど。それがもう、このままCDにしていいですか?ってくらいのクオリティで」と話していた。今回のイベントは一夜限りだし、スキマスイッチも忙しい中、常田くんが音楽監督をつとめてバンドをまとめあげるのは大変だっただろうなと思うけれど、仲間の好きな曲を自分流にアレンジしてステージで歌ってもらうというのはアレンジャーとして、プロデューサーとしてすごくやりたかったことなんだろうなとも思う。常田くんが「青春を歌わせたら日本一」と絶賛する奥華子さんの「ガーネット」はこの日、同じ歳のミュージシャンの手によって豊かな奥行きを持つアレンジの中で、ハンドマイクでひたむきに歌う彼女と共に、まばゆい光を放っていた。本当に音源にして欲しいくらい、このステージに立つミュージシャン全員の音楽への深い愛情を感じた。

続いてはFLOWのKOHSHIさんとKEIGOさんが登場。77年度会でもひときわヤンチャな風貌のふたり(笑)。「色んな40歳がいますが我々は落ち着きがない方の40歳なんで(笑)」とKEIGO。最初に披露してくれたのは「Sign」なのだが、この曲はアニメ『NARUTO』のオープニングテーマということで、同じくスキマスイッチが担当したアニメ『NARUTO』のオープニングテーマである「LINE」とのマッシュアップという特別アレンジでアグレッシヴに届けた。更に「我々、77年度世代にはど真ん中のアニメソングなんじゃないでしょうか」とFLOWが2013年にリリースしたカバー曲「CHA-LA HEAD-CHA-LA」を。凄まじい歌唱力とエネルギーであらゆる世代(というか幅広いドラゴンボール世代)のオーディエンスを盛り上げた。

◆FLOWは今年で15周年◆

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 そしてこのイベントはここで、シークレットゲストが登場。HOME MADE家族のMICRO氏である。「77年度会のパーティがあるということで来ました!僕らHOME MADE家族は今、活動休止中なんですよ。でもシンちゃんが今日このイベントをやるって言うんで、もうどんな形でもいいから出たいと思って来ました!」と挨拶。「僕は153センチしかないから普段シンちゃんの肩に乗ってるからね(笑)」と笑わせる。77年度会の飲み会でも登場するだけでパッとその場を華やかにしてしまう、生まれながらのエンターテイナー、MICRO。「活動休止中なのでHOME MADE家族の曲はできないんですけど、俺がめちゃめちゃ好きなアーティストの曲を大好きな仲間と、今日出会えたお客さんと一緒に楽しめたらいいなと思います!」と、始まったのはマーク・ロンソンのカバーで「Uptown Funk」。もう最高&圧巻のパフォーマンスでこの曲を、このステージを、この夜を自分のものにしてしまうMICRO。そして自らが輝くばかりでなく、セッションでミュージシャンをひとりずつ煽ったりしながらそれぞれのプレイが光る見せ場を生み出していくのがさすが。「楽しむことはもちろんだけど、みんな本気が見たいでしょ?音楽の本気が見たいでしょ?見せてやるよ!」と宣誓した、その心意気が音になって伝わってきた時、オーディエンスはじっとしているのがバカバカしいくらいに、みんなで踊って声を上げずにはいられなかった。

◆カバーしたのはこの曲◆

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ちなみにこの後もMICROさん大活躍なのですが(笑)、先に書いておきます。HOME MADE家族は活動休止中だけれど、立ち止まることなくMICROは自分自身と自分の音楽を磨き続けているんだなと思った。そんな姿を見せてもらったことは同じ77年度会の仲間たちにとっても嬉しく刺激的なことだったのではないでしょうか。いいねいいね。「また50周年もここでライブしようぜ!」と大いに会場を沸かせてステージを去っていったMICRO。彼は50歳でもこんな感じなんだろうなあ(笑)。

そしてこの日のトリを飾ったのは、来年デビュー20周年を迎えるKiroro。常田くんが「やっぱり僕らの年代の代表的アーティストと言えばKiroroだなと思いまして」と紹介。彼女たちがまずは、言わずと知れた国民的ヒット曲「Best Friend」を披露してくれたのだが、その前の千春さんのこんなMCがさりげないんだけどすごく良かった。「Kiroroは来年20周年、私たち自身は40歳になりました。綾と一緒に人生半分、やってきました。綾が隣で笑ってくれたからこの曲ができました」


◆昨年発表された15年ぶりの「Best Friend」新録音源◆

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 終始、ニコニコと微笑みながら鍵盤を弾く金城綾乃さん。千春さんはワンコーラス目の最後の♪Best Friend〜のところで綾乃さんへと手を伸ばしてふたりでニコニコ。そして後ろを振り返り、77年度会のミュージシャンたちに向かってお辞儀をした。愛に溢れた優しい瞬間に会場には大きな拍手が起こった。「私たちはそれぞれ3人ずつ子供がいて、今は月に2〜3回のペースでライブをしながら活動をしています」という千春さんの話も、サラッと言うけどすごいこと。常にどちらかが妊娠してるか産休中かという状態が10年くらいは続いたんだろうことが想像できる。そんな中でも歌い続けてきたし、これからも歌い続けていくであろう、その自然体の強さがKiroroなんだ。2曲目は「未来へ」。この曲、あらためて聴くと、母親へ向けた内容でもあるんですね。これまで母親の優しさに対して素直になれなかったこともあったけど、《あれがあなたの未来》と歌われているのは彼女たちがふたりとも立派な母親でもある今になってみると何だか予言の歌でもあるような気がして不思議。彼女たちとバンドの演奏が終わり、常田くんが「これにて終了になります、ありがとう!」と本編終了。

アンコールではMICROさんが「全力少年」と書かれたTシャツを着て、出オチ感満載の登場(笑)。常田くんも何故か「全力少年」Tシャツに着替えさせられている。「全力少年」Tシャツを着たおっさんふたりの2ショットに会場から笑いが。そしてMICROが「俺さっき洋楽の一番好きな曲を歌ったけど、邦楽で一番心が熱くなるあの曲を歌いたいんだよね!」というMCからの、曲はもちろん「全力少年」。イントロが高らかに華やかに鳴らされる中、「俺たち40歳なんだって、そんなこと全然関係ないよ。年齢はただの数字!」とMICROが叫ぶ。途中で真戸原くんも加わっての40歳だらけの「全力少年」(笑)!コール&レスポンスも盛り上がり、MICROが「いくつになってもビビんじゃねえぞ!」と締めてくれた。


◆若っっ(笑)!◆

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 そして、このイベントを締めくくる最後の最後はやっぱりこの曲なのではないでしょうか。再び全ての(クボくん以外ね)出演者が登場して、アンダーグラフの「1977年生まれの僕らは」を演奏することに。ここでも1978年2月生まれである常田くんの「年度こだわり」が炸裂し、「1977年度生まれの僕らは」に歌詞を変えて歌ってもらっていました。

◆まさにテーマソング的な1曲◆

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真戸原くんが「またやりましょう」と言い、常田くんが「みんなちゃんと活動して、また集まりたいね」と。アイリッシュ風のアレンジと三拍子のリズムに乗って、「ぼくらの四十周年記念奏」は華やかに幕を閉じました。同級生というくくりのイベントってなかなか珍しいと思うのだけれど、20代とかじゃなく40代の入り口に立った今だからこそ、闘争心だけでも懐かしさだけでもない、いいバランスで共に音を鳴らしあい、歌いあえたのではないかなと思う。若い世代と、まだまだ第一線で活躍されている先輩方に挟まれた、この世代ならではの葛藤も抱えつつね(笑)、まだまだ前に進んでいくのだ。本当にそれぞれがそれぞれの活動をちゃんと続けていたら、またこんな楽しい時間が一緒に過ごせるかもしれないね。

 

77年度会の音楽ライター/上野三樹 

ぼくらの四十周年記念奏@恵比寿ザ・ガーデンホール(前半戦)

その話が出たのは、昨年10月に行われた77年度会の飲み会の席だった。

1977年度生まれの音楽業界関係者によるその集まりは、スキマスイッチ常田真太郎氏が中心となって3年目の開催ということもあり、ミュージシャンをはじめ、イベンターや舞台監督やPAや事務所関係者やレコード会社のスタッフなど50人以上が参加する盛大なものになりつつあった。そこで常田くんが締めの挨拶で「来年は、僕ら1977年度生まれの40周年なので7月7日にイベントをやろうと思います!もう会場も押さえました!」と。

あれから9ヶ月の時が過ぎ、既に登録者数が100人以上だという音楽系77年度会による「ぼくらの四十周年記念奏 since 1977-4.2~1978.4.1」が恵比寿ザ・ガーデンホールにて開催された。

今回のイベントは常田くんが音楽監督をつとめるハウスバンドが演奏しながら、様々なヴォーカリストたちが交代で歌っていくというスタイル。以下、当日の模様をレポしていきます。

HOUSE BAND 77 clay crew

 ■音楽監督&Keyboard:常田真太郎(スキマスイッチ)
 ■Keyboard:西池達也、谷口喜男
 ■Guitar:藤本一樹、佐藤大
 ■Bass:三浦“ジャイ”剛、御供信弘
 ■Drums:佐藤大輔
 ■Percussion:森秀輝
 ■Trumpet:中野勇介
 ■Sax:村瀬和広、大郷良知
 ■Chorus:竹本健一
 ■Violin:徳永友美
 ■Viola:岡さおり

開演前のSEではB'zや渡辺美里らの懐かしいヒットナンバーが流れてアラフォー世代を興奮させながら、いよいよバンドのメンバーが登場。常田くんはいつものステージ向かって右側の位置で大所帯バンドの総指揮を取るような形でスタンバイ。そこに「トップバッターをやらせていただきます!」と、ひょいっと登場したのはクボケンジ(メレンゲ)だ。最初に歌われた「エース」の瑞々しい輝きはすごく印象的だった。同じ歳のバンドたちをバックにハンドマイクで歌い上げる姿はエネルギーに満ちていた。《いつだって僕らは生まれ変われる なんか なんか 胸が熱くなって》ーーそんな歌を40歳のぼくらが今、高らかに鳴らすことがこのイベントにふさわしいオープニングだったように思う。

「1977年度生まれの飲み会でね、僕も2回行ったんですけど。なかなか馴染めずに(苦笑)。今日もほとんどまだ喋れてないんですけどね」というクボくん。そんな(全員同級生なのに人見知りを発揮してしまうタイプの)彼がトップバッターをつとめたのは理由があって、彼はこの後、他のイベントにも出演するダブルヘッダーだったのだ。この後、次の会場に移動してしまうので「クラス写真を見返して『こんな奴いたっけ!?』ってなると思います(笑)」と言いつつ2曲目は「シンタくんとは昔から交流があって、時々気にかけてくれたりして。たまに褒めてくれる曲を今からやります」と「うつし絵」を。パーカッションにドラム、バイオリン、キーボディストも3人(!!)という重厚かつ広がりのあるサウンドの中で奏でられたこの曲はいつものバンド・アレンジとはまた異なる素敵さを纏っていた。

 

新垣結衣さんに提供した楽曲のセルフカバーです◆



お次に登場したのはアンダーグラフから真戸原直人&中原一真。黒いシャツ&紺のシャツでまるでコンビのような出で立ち。1曲目は「ツバサ」だったのだけれど、これがまたアレンジが超新鮮で洗練されたカッコ良さ。アンダーグラフもまた青春の日々の挫折や葛藤、そこからもがきながら歩んでいく輝きを鳴らしながら登場したバンドだけど、今もこうして過去の曲をしゃんとした姿勢で鳴らせているのは素晴らしいことだと思う。クボくんのナイーヴさも昔からだけど、真戸原くんは本当にピュアな人。彼らと常田くんとの付き合いも長く、出会いはデビュー当時に広島で一緒にお好み焼きを食べたのだとか。MCではその頃のアンダーグラフが常田くんにサポートしてもらって、ライブをした時の話になりました。

真戸原「一緒にやりましたよね、ライブ」

常田「やりました、やりました」

真戸原「僕らアンダーグラフのメンバーは小さな車で移動して、シンちゃんだけ新幹線でしたけど」

常田「いやいやスケジュールの都合よ!?(笑)」

ーー語り継がれるこの話、好きです(笑)。

そして「スキマスイッチがどんどん売れていく中でシンちゃんが僕らの曲を褒めてくれて、それがすごく励みになってます。困った時の常田真太郎頼みというか、アンダーグラフはメンバーがひとり脱退したんですけど、その時にお願いして一緒に書いた曲です」と「素敵な未来」を披露。そうだ、この曲は真戸原くんと常田くんの共作で歌詞が書かれたのだった。当時、取材させてもらったんだけど、真戸原くんが大切な仲間と別れた悲しみを、ちゃんと言葉にするという作業を常田くんが手伝ってあげたんだなと思った。こうして一緒に演奏する姿を観たのは初めてだったので、それも感慨深かったです。いつも一緒にいるわけではないけれど、いつもどこかで気にかけている、彼らのそんな繋がりを感じさせる熱演でした。


◆MVは行定勲監督◆

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さて、お次は安藤裕子さん。登場するなり、もうフェアリーな可愛さで、「ファミリー感のある空間ですね!」なんて言いながらしばしお喋り。緊張を話すことでごまかしてるなんて言いつつも、いざ歌い始めると本当に麗しき声で一瞬にして会場をふんわりと包み込みます。そんな1曲目は「ドラマチックレコード」、バンドの演奏もメロウで豊かなアレンジ&サウンドに一気に様変わり。歌い手によって演奏全体の質感が変わるような印象で、それは本当にミュージシャン&シンガー、そしてPAさん(もちろんPAさんも77年度会メンバー!)全員の力量だと思うんです。

 

◆77年度会の妖精系歌姫◆

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そしてここからは更にこの日ならではの展開に。常田くんが「僕の相方は77年度生まれじゃないから出れないんだけど誰かにスキマスイッチの曲を歌って欲しくて」と、安藤裕子さん+Kiroro玉城千春さんのデュオによる「奏(かなで)」を。この名曲に女性の声が重なり合うなんて、かなり贅沢でレアなバージョンでした。常田氏の鍵盤もいつもより心なしかフェミニンだった気も(笑)。しかも女性ふたりは初対面で一緒に歌うのも初めてだったそうですが、ばっちりのデュオっぷり!おふたりの声の違いもどっぷり堪能できて、ずっと目を閉じて聴いていたかったなぁ。玉城さんは「安藤さんの曲はよく聴いていて、あんまり喋らない方なのかなと思ってたんですけど、とてもたくさんお喋りしてくれて。楽しいな〜と思って(笑)」とおっしゃっていました。とても和やかなムード。

お次に登場した方は、常田くんと同じようにハットを被っていて、同じように隣に並ぶとまるで鍵盤デュオみたいな佇まいに。そう、風味堂渡和久さんです。「常田くんのリクエストで、僕がまだ福岡にいた頃に書いた曲をやります」と「ママのピアノ」を披露。続く「ナキムシのうた」では真戸原くんとKOHSHI(FLOW)も加わって、オーディエンスも総立ちでハンズクラップ。楽しいムードに。

 

◆これも名曲やね。風味堂とFLOWは同じオーディション出身なんだって◆ 

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☆☆長くなりましたので前半戦はここまで☆☆

ドジョウを飼った日。

先月の下旬、幼稚園から「プール開きのお知らせ」をもらってきた。そこには衝撃の一文が添えられていた。「プール開きの日に子供たちがドジョウつかみをします。2匹ずつ持ち帰りますのでお家で飼ってみてください」。ド、ドジョウ?

園庭の大きなプールに何十匹ものドジョウを一斉に放ち、それを子供たちが必死につかまえる。その光景は何ともスケール感があって面白そう。しかし、金魚一匹すらいない家庭で、水槽系のペットを飼ったことがない私が、いきなりドジョウの飼育をするとなるとハードルが高すぎる。でもきっと子供の教育に何らかの良い影響があるのかもしれない、それも幼稚園の教育の一環なのかもしれぬとドジョウを飼う決意をした。したものの、何からどうしたら良いかわからずに、まずはネットなどでドジョウのことを調べてみることにした。出てきたのはいきなり、柳川鍋の画像だった。イケナイものを見てしまった。

とはいうものの、プール開きの日と広島旅行が重なっていて、その日は幼稚園をお休みすることが決まっていた。そしたら担任の先生が、カメ美ちゃん(←娘。便宜上の仮名です)のドジョウは幼稚園で預かっておきますので後日お渡ししますと。なので実は広島旅行中もドジョウのことを調べたり、水槽をAmazonに発注したりと、なかなか頭がいっぱいだった。東京に帰ったら家にドジョウが来てしまう。迎え入れる準備をしなくてはならない。

調べたところによるとドジョウは水槽の上から跳ねて飛び出して死んでしまうことがあるという。なので、高さ40センチ以上の水槽を探し、幅も60センチくらいあるものを購入したら、家にとんでもなくデカいダンボールが届いてドン引きした。ドジョウの為にこんな……置く場所もないのに。しかも旅行から帰った翌日、幼稚園に行くと「すみません、実は幼稚園で飼っていたドジョウが全部死んでしまって……」と先生に言われ、「あっ、だったらもういいです」と言いかけたけど「また後日、ドジョウさんをお渡ししますので少し待っててください」と。後日がいつなのかもわからないまま水槽を放置していると2日後くらいに、カメ美ちゃんのお迎えに行ったら、先生から、よく縁日の金魚すくいをした時にもらうようなビニールの袋をもらった。中には薄茶色したドジョウ、長いのと短いのが2匹、入っていた。

その日の夜はまだ水槽に水を用意していなかったので、ひとまずバケツに移した。ジェックスグラステリア6点セットという水槽を買ったら「カルキぬき」という薬剤のようなものが付いていたので説明書きを読んで水を作ってあげた。翌日、水槽に移してあげたらとても嬉しそうにしていた(ように見えた)。水槽台なんてものはもちろんないのでリビングの床にそのまま置いていたら、カメ美ちゃんは床に寝そべってドジョウの観察をしていた。

水槽に砂があると、そこに隠れたりくつろいだりするらしい。水草もあると良いというわけで、翌日、ペットショップの水槽コーナーのお姉さんに相談してドジョウに良いものを購入。ついでにオレンジ色の可愛いドジョウがいたので一匹連れて帰った。薄茶色のはマドジョウ、オレンジ色のはヒドジョウというらしい。砂は一度しっかり洗わなきゃいけないということで洗ったり、カルキぬきのお水を作ったりしていたら、ちょっと手が荒れた。ドジョウを飼うのはなかなか大変だが、砂や水草を入れると更に喜んでいる(ように見えた)。水槽もキッチンカウンターに移したらとても様子が見えやすい。砂の中に体を埋めて顔だけ出している姿なんかを見ると、何とも可愛くて癒される。ドジョウなんて全然可愛いと思えなかったのに、一緒に過ごすとたちまち愛情がわいてきた。

しかし、その翌日の夕方、大きな方のマドジョウが水槽の端に沈んだまま動かなくなった。やがて小さい方のマドジョウも元気がなくなって動かなくなった。何とかヒドジョウだけは助けたいと、何が悪いのかわからなかったけど、もし砂や水草がいけなかったのなら環境を変えてあげることしかできないので、再びバケツにカルキぬきの水を作ってマドジョウだけを移した。オレンジ色のマーちゃんはバケツの中から顔を出して口をパクパクさせるような素振りを見せた。「一体何が起こってるの?」「あたしどうなるの?」、そんな風に訴えている(ように見えた)。翌日の朝、バケツの中でマーちゃんも動かなくなった。本当に悲しかった。ドジョウなんて飼いたいと思わなかったのに、それでも一緒に過ごした数日間で大事に飼おうって決めたのに、すぐ死んじゃって。空になった大きな水槽だけが残った。旦那とカメ美ちゃんが3匹のドジョウのお墓を作った。これじゃあ何の教育にもならないじゃないかと思った。

「カメ美ちゃんちのドジョウさんは元気ですか?」と先日の個人面談で聞かれた。答えると「そうですか……実は他のお友達のドジョウさんも……」と先生も残念そうだった。もしかしたら最初の環境も良くなかったのかもしれないし、原因はよくわからない。幼稚園のママ友は、金魚を飼っている水槽にドジョウを入れたら、金魚が全滅したらしい。プール開きのドジョウつかみはどうやら毎年恒例の目玉行事みたいなので、来年また持って帰ってくるのだろうか。いつかまたドジョウを飼う時は絶対に幸せにしてあげたいと切に思う。誰かドジョウ飼育に詳しい人がいたら教えて欲しいです。

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世界遺産とルーツを辿る旅。その④帰れない編

世界遺産とルーツを辿る旅」シリーズも長くなってきましたので、皆さん飽きてきてる頃だと思いますが、最後に自戒を込めて書いておかなきゃいけないことがあります。

事件が発覚したのが広島旅行3日目、最終日のお昼。みんなで広島駅で軽くランチしてから、父の生誕の地へ向かおうと集合した時のこと。両親がお手洗いに行くというので待っていたら旦那からLINEが。「こちらは今から出ます。鍵あるよね?」と。旦那は広島から帰る私たちとは入れ違いに、この日は福岡出張でゆずの福岡ヤフオク!ドーム公演を観て一泊するスケジュールになっていました。旦那いわく、出発前に犬の散歩をしながら悪い予感がしたそうです。私はカバンやリュックの中を探しながらも「鍵あるよね?」の文字を見た時から「やっちゃったなー!」と思っていました。

家の鍵は自転車の鍵と一緒にピンクの小さなキーケースに入れてあるのですが、この旅で一回もキーケース、見てない。持ってきてない。だって家を出るとき、自転車使わずタクシーだったから鍵いらなかったし、旦那が見送ってくれたから鍵いらなかったし。失くしたのではなく持ってきてないことは瞬時にわかりました。めちゃくちゃショック。どうしよう。そのLINEもすぐ見れてれば良かったのだけど既に20分くらい経ってて、旦那に慌てて電話をすると既に電車の中。羽田空港に向けて出発してしまっています。仕方がないので考えて、なるべく迷惑をかけないようにと、鍵は持ってないということと、こう伝えました「品川のホテルで今日は一泊します。明日の朝、(旦那が)帰京したら鍵をもらいに行きます」と。すると返ってきた答えはこうでした。「品川のコインロッカーで鍵を預けられるか見てみます」と。なるほど、コインロッカーに鍵を預けるという方法が残されているのですね。

結果的に品川のコインロッカーはいっぱいだったみたいで、羽田空港のコインロッカーに旦那が家の鍵を入れてくれて、そのコインロッカーがある場所とコインロッカーの番号、更に中身を取り出すときの暗証番号を写真で送ってくれました。手元の鍵でガチャッとするタイプのコインロッカーでなければ、暗証番号さえわかっていれば別の人でも開けられますもんね。これ、ピンチの時に覚えておくといいかもです。

でもよりによって旅行に出かけて、しかも旦那も出張で、そんな時に家の鍵を忘れるとか、あんまりそういうことって重ならないですよね〜。でも私そういうこと、よくあるな。1日で家の鍵をふたつ失くすという信じられない地獄も味わったことあります。ええ、その度に旦那はトラブル対応させられて、娘は付き合わされています。

広島駅で、まだ予定はいっぱいあるのに頭の中が旅行どころじゃなくなっている最中に母がこんなことを言いました。「あなた、お父さんに似てるのよ(笑)」って。違う、違う!父さんみたいに全く何も考えてなくてまるで予定も把握してなくてお母さんに頼りきりな人と一緒にしないで!私はここに来るまでに本当に細かく行程表を作るほど慎重にやってきたのに!と思いつつ、どんなに準備をしても結局、家族を振り回してることには変わりないな。家の鍵だけは忘れちゃいけないよなあ、と反省。

子連れで広島から品川まで4時間近く新幹線に乗って、そこから更に羽田まで行って鍵を取ってから西東京にある自宅まで帰宅するの、正直なかなか心が折れそうでした。飛行機で帰ることも考えたし(着いたらコインロッカーのある羽田だからね)、やっぱり品川あたりのホテルでもう一泊した方が楽かなとか色々と考えました。でもそうすると今度はお留守番している犬が可哀想だし……。考えすぎて、品川から京急線に乗って羽田空港の第2ターミナル(終点)で降りなきゃいけないのにボーッとして降り忘れて、電車がそのまま反対方向へと進み始めた時は泣きそうになりました。このままだと品川に戻ってしまう……!3歳の娘も事態を察したらしく「ママがずっとすわってるからだよ!」と怒られました。第1ターミナル駅で降りて、再び反対方向の第2ターミナル駅行きの電車に乗り換え移動するの、これまた面倒くさいわけですよ。ベビーカーだからいちいちエレベーター使わなきゃだし。ようやく辿り着いた羽田空港、コインロッカーを探して無事に開けて、広い空間の中にぽつんと家の鍵を見つけた時の達成感を無駄に噛み締めました。今年最大級のイベントとしてとても楽しみにしていた広島旅行でしたが凄まじいオチが待っていて、両親や義母にも心配かけちゃって申し訳なかったです。私らしいと言えばそれまでなんだけど……。

ついでなのでもうひとつ書くと。旅から帰った翌日、今度は携帯電話を渋谷の某ビルのトイレに忘れるという事件を重ねてしまいました。その日は取材で、現場に到着してから携帯がないことに気がついて、「某ビルのトイレだ!」と思ったんだけど既にアーティストも到着してて取りに行く時間もなかったのでインタビュー終了後に探しに行ったけど、置き忘れた場所には既になくて。携帯電話をなくすとビルの防災センターとか、交番に遺失物届を出さなきゃいけないのですが、その前に大事なのは自分の携帯番号以外の連絡先(電話番号)がないとやっぱりダメなんですね(当たり前か!)。でも何か気が動転してるとそんなこと頭が回らないですよね〜。

うちは家の電話をもう使ってないし、そもそも自営業だから会社の電話もないし、旦那の携帯番号も覚えてないし、ということで104で旦那の会社の電話番号を調べるところから始まりました。しかも公衆電話から104の番号案内にかけると「では今から番号をご案内しますが、100円玉を入れていただいていますか?」と言われます。残り数十円とかしかなかった場合、かけ直さなきゃいけないのです。いったん電話を切ってコンビニに行って、水でも買ってお金を崩しますよね。100円玉を入れて再び電話で番号案内をお願いして、そこからまた会社で旦那を呼び出して、取材で出てるかと思いきや奇跡的に電話に出てくれたので、「携帯電話をなくしたので番号を教えてください」と言いますよね、もう本当はそんなこと言いたくないですよね。謝罪しかないですよね。鍵に続いて、今度は携帯ですから。教えてもらったその番号を遺失物届けに連絡先として書いて、再び防災センターと交番に届けて、祈るような気持ちで渋谷を後にして帰宅しました。

ちなみに携帯電話会社ごとに自分の電話が今どこにあるか調べてくれる番号というのがあって、それは交番の方が教えてくださったんですけど。そこに電話して調べてみると、めちゃくちゃ早口な機械の音声で「シブヤクドウゲンザカイッチョウメ……(聞き取れない)にあります」みたいなことを言ってたので、これは見つかるんじゃないかな、誰かが旦那に連絡してくれるはず!と思ったんですよね。だって私、ドジはするけど奇跡は起こす!をモットーに生きていますから。嘘です。(小声で)周りの人に迷惑かけてます。

1時間ほどして帰宅してPCを開くと旦那から「携帯を保管してくれてる人から連絡があったので今から取りに行きます」というメールが届いていました。ありがたい……!その日の夜に携帯電話は無事に手元に戻ってきました。某ビル内のショップの店員さんが拾ってくれていたようです。感謝。

というわけで日々、色んな教訓を得て、トラブル回避の技を(主に旦那が)身につけながら生きています。とにかくスマホを紛失した時は、まずコンビニで水を買って100円玉に崩して、それを飲んでいったん落ち着く、というのがいいと思います。最後は失敗談続きですが広島旅行記これにて終了。(完)

 

 

世界遺産とルーツを辿る旅。その③父のこと編

一緒に暮らしていないとたまに忘れちゃう。でもこうして時々一緒に旅行になんか行くとたちまち思い出す。家族のちょっと変なとこ、めんどくさいとこ(笑)。

さて、広島旅行記最終日、3日目の話。その前に、2日目の夜にこんなことがありました。嚴島神社での坂本真綾さんのライブ取材までにまだ時間があったので、両親と娘が夕食をとる会場に一緒に行くことになった。部屋は3階でレストランはロビー横の1階にあるので、みんなでエレベーターを待ちます。扉が開いて、まずは父が乗り込み、その後で私と娘が乗った。そして母が乗ろうとした時に、父が平然と「閉」のボタンを押して、母の唖然とした顔を残してエレベーターは1階へ。私は「ちょっとお父さん……!」と言ったのだけど、父は1階に着くなりひとりでスルリとエレベーターを降りて私と娘が唖然としている間にエレベーターのドアは再び閉まり、また3階まで上がると再び唖然とした顔の母と合流。父はこんな時、何も考えていない。何の思考も持たないからこそ、こんなゼンマイ仕掛けのコメディアンみたいな動きが出来るのだ。そんな彼の行動は常に周りの家族全員を巻き込む。いや、家族だけじゃない。

ライブ取材を終えて、旅館に着いた時に、ふと売店のアイスクリームが目に止まり、買おうかなと思っているところに大浴場から出てきた父の姿が見えた。しばらくアイス選びに迷った後、うろついている父に「父さんもアイス食べる?」と聞いたら「ああ、お前か。今、ここは何階か聞こうと思っとった」と。娘の姿ぐらいわからんものか(苦笑)。しかも父さん、ここはどう考えても1階だ。誰にでも遠慮なく話しかける彼は、誰とでも仲良くなる性質もあるらしく、煙草を吸うだのトイレに行くだの言ってすぐに集団行動からいなくなり、次に見つけた時には色んな場所で見知らぬ人と親しげに話し込んでいたりする。宮島でも外国人の絵描きと仲良くなったとかで、絵をもらったと部屋にペラッと置いていたりする。描かれた風景は宮島ではなく明らかに……モン・サン=ミッシェル!?後で知ったのですが宮島とモン・サン=ミッシェルは観光友好都市で、だからフランス人の観光客もいっぱい訪れるそうなのです。まあ、それはいいとして父が貰った絵はお洒落だけど和室の部屋の中でなかなか胡散臭い雰囲気を醸し出していました。

「お父さんといると、いつもこんなよ。何でこんなことが起こるんだろうってことばっかり!」と母。しかも「旅ならではのハプニング」とか、そういうものとは別次元のね(笑)。

前置きが長くなりましたがそんなこんなで広島旅行3日目は、宮島から広島市内へと戻り、父の生誕の地を訪れるという最後のミッションが残っています。広島生活も長かった旦那の母上(義母)が案内してくれるということで、路面電車に揺られること数十分。この日は、とうかさんと、カープの試合と、更にNEWSのコンサートが行われるということで広島は大混雑。しかし「舟入幸町」という場所で降りると、とても静かな住宅地が広がっていました。彼の被爆手帳には「被爆の場所」という項目があり、そこに記されていたのが「広島市舟入幸町」。下には「爆心地から1.5キロメートル」と書かれてありました。爆心地、めちゃくちゃ近いです。私、以前にも被爆手帳を見せてもらったことがあって、「こんな近くで被爆して助かるわけないじゃん」と思いました。それでまだお婆ちゃんが生きていた頃、「原爆が落ちた時どうしたと?」と聞きました。そしたらお婆ちゃんはお腹のあたりで抱いた赤ちゃんに覆いかぶさるような姿勢をして「こうしとったけん、助かったと」と笑って言いました。お婆ちゃんはそれ意外、原爆のことは何も語りませんでした。それから、どうしていたのかも。

父の記憶ではその後すぐ、鹿児島に疎開したのだとか。そしてお婆ちゃんは「原爆が落ちた時、家の中にいたはずなんだけど気付いたら川にいた」と話していたそうです。当時、暮らしていた家のあたりは今、大きな病院になっているとかで「舟入幸町」を降りてから少し歩いて探してみることに。すぐさま、この辺りで暮らしてると思われるお婆さんに、義母が話しかけて聞いてくれていました。こんな時の義母はテキパキとしていて素敵です。教えてもらった通りに少し歩くと、大きな病院がありました。緊急病院でもあるようで日曜日でしたがあいていて、玄関口から多くの人が診察を待っているのが見えました。そして病院の長い玄関口を横切って、少し斜面を登ると、そこには大きな川が流れていました。太田川です。私は、お婆ちゃんが被爆した時、熱くて痛くて無我夢中に走って走って、いつの間にか川にいたのだと思っていましたが、思っていた以上に川は住んでいた家のすぐ近くにありました。それが私は何だかホッとしました。空はとても青くて、川は穏やかで、ちょうどいい風に吹かれながら、両親と義母と私で少し話をしたり写真を撮ったりしました。娘はベビーカーですっかりお昼寝をしていました。義母は川の向こう側に息子が通っていた高校があると言いました。何だかそれも不思議な縁だなあと思いました。ここで生まれて、奇跡的に助かった命が、こうして受け継がれていくんだなと思ったし、初日では自分がいずれ入るであろうお墓にも初めて訪れましたし、ひょんなことから(仕事で来たんですけどね!)意義深い旅になりました。でも、ここで「めでたしめでたし!」で終わらないのが俺たちの旅、なんだよなあ〜!(まだつづくんかい!)

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世界遺産とルーツを辿る旅。その③いざ宮島へ編

広島のお祭り・とうかさんの狂騒の中、ようやく眠りに着いた次の日の朝。ホテルで娘と朝食バイキング(広島お好み焼きと沖縄そばがあって嬉しかった!)の後、チェックアウト。前日の夜に坂本真綾さんのリハーサルで現地入りしたスタッフの方から「夜は冷えますので厚手の上着を持ってきてくださいね」というメールをいただいていたので、近くのユニクロに朝イチで行こうかなと思っていたけど、母より「上着用意したから」の報せが届く。

博多から新幹線で出発した両親と広島駅で合流し、電車で宮島口を目指す。久しぶりに孫に会えて両親も嬉しそう。電車を降りたら宮島口では更に義母も合流して全員勢ぞろいでフェリーに乗り込みます。と、その前に忘れちゃいけないのが腹ごしらえ。宮島名物と言えば、あなご飯だそうで、行列のできる有名店に一時間前から義母が並んでいてくれて、私たちはほぼ並ばずに入店することができました(ありがとうございます!)。鰻の美味しい店は行ったことありますが穴子の美味しい店は初めてです。タレにあまり頼らない感じのシンプルさと、穴子の香ばしい焼き加減が、忘れられない美味しさでした。

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「うえの」という名の有名店。 

そしていざ、宮島行きのフェリーで出発。宮島までは10分ほどで到着なのですが、だんだん変わってゆく緑の濃い景色、海に浮かぶ朱色の鳥居が見えてくると、やっぱりテンションが上がります。

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宮島に着くと、凄まじく人懐こい野生のシカの歓迎に驚きつつ。宿のチェックインには早いのですが、この日に宿泊する宿の車が迎えに来てくれて宮島水族館へと連れて行ってくれました。大きな荷物だけそのままお宿へ運んでくれて、とっても親切です。宮島水族館は規模としてはこじんまりですがのんびりした雰囲気で子連れには最適。私としても、ばあば×2、じいじ×1が一緒ですのでめっちゃ楽!!まあ、じいじは戦力にあまりならないのですが(笑)。ちなみに、この水族館はチンアナゴとスナメリが人気のようです。すんごい適当に見て回ってたので、ちゃんと見れば良かったですね、はい。わたしは、スナメリというのがどういう動物なのかも知らなかったのです。

そこから少し歩いて、もみじ饅頭のお店へ。岩村もみじ屋さんは店頭で焼き立てホカホカのもみじ饅頭を食べさせてくれるお店です。お土産用も広島駅などには売ってなくて、ここでしか買えないということで余計に美味しいような気がしてきます。冷たいお茶もセルフサービス。娘が張り切って、みんなにお茶を配ってくれました。

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食べ終わり、さあ宿に向かうかという時に、先ほど迎えに来てくれた宿の車がたまたま通りがかり、乗せてくれました。ラッキーです。運転手のおじさんと、うちの父は、既に以前から友達だったかのように親しげに話しています。

玄関入ってすぐのところに、足湯カフェが併設されている小さな宿。お部屋は広めの和室で、大きな窓からは海と厳島神社の鳥居が見える最高の眺めです。夕方になり、じいじとばあばに娘を託して、私はライブ会場である厳島神社に向かったのでした。(つづく)

 

☆ライブレポートはこちらに掲載されています。同じ内容なのですがサイトごとに個性あふれる見出しをつけていただきありがとうございます。

 

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